ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年06月28日<ⰧⰊⰧ
☆★ 鹿ヶ谷の飲み会で酒瓶を壊しては時の太政大臣をdisっていたことがチクられ、参加者が粗方お縄になる(1177年)。☆★ オーストリア=ハンガリー皇太子殿下とその御婦人がサラエボへ遊びに行ってたところ銃弾をお見舞いされる。(1914年)これが協商国Vs.同盟国の4年にもわたる世界規模の大喧嘩の幕開けを告げる一発だった。☆★ ヨシフ・スターリンがユーゴスラビアを破門(1948年)するも、その頭目のヨシップ・ブロズ・チトーの粛清までは出来ぬまま以後30年以上も生き永らえることに。
本日記載附録(ブログ)
グレートブリテン・アイルランド連合王国南部₌ソールズベリー₌の北西近郊に在る環状列石
最も有名な先史時代の遺跡である。この直立巨石はBC2500年~BC2000年の間に建立された
夏至の日、ヒール・ストーンと呼ばれる6mの玄武岩と、中心の祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇る
【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)
◇◆ ここまでわかったストーンヘンジ、その謎と壮大な規模 =1/3= ◆◇
火葬、宴会、「木」のヘンジ…解明される遺跡同士のつながりと意味
世界で最も有名な先史時代のモニュメントと言えばストーンヘンジだろう。英国ロンドンから南西へ約150キロのソールズベリー平原に4500年前から立つ、謎に満ちた巨大遺跡だ。周囲に点在する関連の遺跡群とともに、1986年にユネスコの世界遺産に登録された。
この20年で考古学者たちは、周辺の様々な証拠をつなぎ合わせ、建造にあたった新石器時代の人々について実に多くのことを明らかにしてきた。天文学の知識と土木技術、そして強い決意をもつ古代人が建てたストーンヘンジは、後世の人々の想像力を何千年もの間かき立ててきた。
あの魔術師と王の伝説も
ストーンヘンジにはさまざまな仮説がある。なかでも最も有名かつ空想的な仮説は、アーサー王伝説に含まれる物語だろうか。12世紀の年代記作家ジェフリー・オブ・モンマスは著書『ブリタニア列王史』のなかで、魔術師のマリーンがアイルランドから石を運んだと書いた。
同じく12世紀の作家であったヘンリー・オブ・ハンティングドンはこう表現している。「驚くべき大きさの石がまるで門のように立てられ、門の上に門が置かれているかのようだ。また、それらの石がいかにしてあの高さまで持ち上げられたのか、そもそもなぜあの場所に立てられたのか、誰にもわからないのである」。ストーンヘンジの名は、ヘンリーがモニュメントを「Stanenges」と呼んだことから来ている。アングロ・サクソンの言葉で「石の絞首台」という意味だ。
17世紀にはさらに多くの仮説が登場した。イングランドの建築家イニゴー・ジョーンズは、古代ローマ時代の神殿に違いないと考えた。哲学者ウォルター・チャールトンは、バイキングの手によるものだと主張した。
遺跡を初めて丹念に調べたのは、17世紀の学者ジョン・オーブリーだ。彼は古代ブリテンのドルイドがストーンヘンジを建てたと考えた。1660年代に調査したオーブリーは、巨石を囲む土塁のすぐ内側に56個の穴が並んでいるのを発見した。彼の名を冠して「オーブリー・ホール」と呼ばれるこれらの穴には、木の柱が立っていたと現在の研究者たちは考えている。
18世紀にも調査は続けられ、学者のウィリアム・ストゥークリーによって「アベニュー」が発見された。エイボン川とストーンヘンジをつなぐ長さ3キロ余りの道だ。オーブリーと同じくストゥークリーも、ストーンヘンジを造ったのはドルイドだと考えた。
19世紀になると、建造時期が先史時代にさかのぼる可能性が検討され始める。1900年に始まった修復作業に基づき、ウィリアム・ゴーランドはストーンヘンジが後期新石器時代または前期青銅器時代のものであると推定した。これが、今日の研究の土台にもなっている。
ストーンヘンジはいつできたのか
エイボン川沿いには、ストーンヘンジに関連する新石器時代の遺跡が複数並んでいる。この土地は、後退する氷河に削られてできた地面の溝が、偶然にも夏至と冬至における太陽の方向と一致したため、特別な場所とされたのだろうと考えられている。
人間の手になる最初の遺構の一つが「グレーター・カーサス」だ。紀元前3500年頃に造られ始めた、低い土塁に囲まれた壕であり、長さが3キロで、幅が100〜150メートルもある。ストゥークリーはこれをストーンヘンジの北およそ800メートルの場所で発見した。グレーター・カーサスの詳細な用途は不明だが、おそらくは儀式に使われたのだろうと推測されている。
かの有名なストーンサークル(環状列石)の建造が始まったのは紀元前3000年頃、グレーター・カーサスの数百年後のことだ。最初に、環状に築かれた二重の土手と、その間に掘られた溝ができた。その中心に馬蹄型に並べられた「トリリトン」(2つの石柱の上に1つの横石を渡したもの)とその周囲の環状列石は、紀元前2500年頃に完成した。
使われた巨大な石は「サーセン石」と呼ばれる砂岩の一種だ。1つが25トンほどにもなり、30キロ余り離れた場所から運ばれてきた。一方、これらとともに80個ほど並ぶ、より小さな板状の石は、「ブルーストーン」と呼ばれるドレライト(粗粒玄武岩)だ。こちらはサーセン石よりもはるかに遠い場所からやって来た。
・・・・・・明日に続く・・・
…… 参考資料: ストーンヘンジの不都合な真実… =3/4= ……
「20世紀の完全な作り物」説、何度も大規模修復し隠蔽
その後、1919年、20年、58年、59年、そして64年にも復元作業は行われた。20年には6つの巨石が起こされ、コンクリートで固定された。58年にはアルターストーン(祭壇石)の穴が掘られ、トリリトンが再建された。また、59年には3つの巨石が、64年には4つの巨石が起こされ、コンクリートで固定された。チッペンデール氏によると、1964年の時点でほぼすべての石は動かされ、コンクリートで固定されたという。
これまでほとんどの人はその事実を知らずにきたが、2012年になり、あるロシアの情報サイトが暴露するかのように、1950年代に行われたストーンヘンジ復元作業の様子を詳細に捉えた写真108枚を公表し、衝撃を与えた。
それらの写真を見ると、巨石が完全に取り除かれ、穴を掘り直し、再設置の際にコンクリートが流し込まれた様子がわかる。巨石が据え置かれていた地面は掘り返され、土はまとめて横に盛られているが、たとえば巨石の直下は砂利敷きだったのかなど、十分な土壌調査と詳細な記録を経て行われていたのか疑問は残る。
また、いくつかの石には裸の状態でロープが巻かれて吊り上げられていたことや、子供を含めた見物人もいたこともわかり、国家プロジェクトによるプロフェッショナルな作業というよりも、むしろ民間ボランティアが週末に行ってきた作業のような印象すら与えるものである。
疑惑を呼ぶ巨石
ところで、ストーンヘンジに利用されている石は、火成岩のドレライトと堆積岩の砂岩が主体だが、奇妙な巨石がある。それが次の写真に写っているものだ。完璧な直方体のコンクリートの塊が巨石の芯を構成しているようにみえる。良心的にみれば、巨石の内部をくり抜いてからコンクリートの基礎(芯)の上に被せるように載せられたのだと考えられるだろう。
だが、一部の人々は、石自体が完全に作り物であり、予め用意しておいたコンクリートの芯の周りにそれらしく加工したコンクリートを被せたのではないかと疑っている。つまり、セメントに混ぜ込む砂や小石などを厳選し、巧く加工すれば、天然石のように加工できるのではないかというのである。
○○-----○○-----○○-----○○-----○○
=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
前節へ移行 : https://blog.goo.ne.jp/bothukemon/e/d07a7356f7ea3a154b27d9d19d8ab85a
後節へ移行 : http://blog.goo.ne.jp/ストンヘッシ04/xxx
----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------
【喜色一笑;歴史自講】 :https://hourou8855desu.seesaa.net/
【浪漫孤鴻;時事自講】 :http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/
【壺公夢想;如水総覧】 :https://thubokou.wordpress.com/
================================================
・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
================================================