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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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タイタニック号の処女航海_13/mn ; 歴史深層(013) 

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ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年06月04日<ⰧⰊⰧ

☆★ この日だけは、大人も子供も動物園の中の動物も口に毛のはえた棒を突っ込み出し入れして、最後に白い液体を出す行為に勤しむ。何時もはサボるのにw=虫歯予防デーにして歯と口の健康週間初日=☆★ 大リーグの過ぎたファンサービスが原因で酔っ払いが大勢グラウンドに乱入、試合どころではなくなる破目に(10¢ビールナイト、1974年)。☆★ 中国共産党が、北京は天安門に屯していたブルジョア民主主義にかぶれた不良学生に対し人民解放軍を使って無理矢理蹴散らす挙に出る(1989年=天安門事件=)。学生たちが文化大革命の紅衛兵になりかねないと思った鄧小平の意向があった模様。

本日記載附録(ブログ)

「絶対に沈まない」といわれていた豪華客船タイタニックが沈没した

見過ごされた警告、救命ボートの不足、いくつものミスが重なって沈没は起きた

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

◇◆ タイタニック号はなぜ沈没したのか? 重ねたミス、1500人犠牲に ◆◇

   1912年4月、豪華客船タイタニック号は、英国のサウサンプトン港を離れ、処女航海に出た。

 14日、船長のエドワード・J・スミスは、洋上でいつものように船の点検を済ませたが、予定されていた安全訓練は行わなかった。その後、日曜日の礼拝を終えると、航海士と会って、船の位置を確認した。彼らの計算によると、船は平均22ノットで快調に進んでいた。

 日が暮れると、気温は氷点下まで下がった。海面はガラスのように輝き、氷山の特定を困難にした。春の北大西洋ではよくあることだ。

 それでも船長は、そのまま全速力で船を走らせた。もし何かが見つかっても回避できるだろうと考えていたからだ。

見過ごされた警告

 午後7時半までに、タイタニック号は近くを航行していた複数の船から5回にわたって警告を受け取っていた。無線通信士のジャック・フィリップスは、ある船からの「多数の氷山や海氷の存在と位置を知らせる」詳細なメッセージを書き留めている。ところが、彼は乗客の個人的なメッセージを送信するのに忙しく、この警告を航海士に報告しなかったようだ。

 午後10時55分、別の貨物船カリフォルニアン号が、「海氷の密集地帯に入って船が完全に停止した」と連絡してきたが、無線は緊急性が高いことを示すコードで始まっていなかったため、これも報告されなかった。

 見張り台に立っていた当直のフレデリック・フリートとレジナルド・リーは、目を凝らして前方の暗闇を見つめていた。午後11時40分になる直前、フリートが真正面に海よりもさらに黒い何かがあるのを認めた。船が近づくにつれ、その正体が明らかになった。氷山だった。フリートは警告ベルを3回鳴らし、船橋へ連絡を入れた。

衝突

 船橋で報告を受けた一等航海士のウィリアム・マードックは、直ちに船を停止させ、進路を左へ変えるよう命令を出した。さらに、氷山を回避するため「全速後進」を命じてから、船内の防水隔壁のドアを閉めるボタンを押した。

 船はギリギリのところで左へ向きを変え、氷山は右舷のすぐ横を通過していった。

 一見危機を脱したかに思えたが、目に見えない水面下で船は氷山に接触し、船体に穴が開いた。ほとんどの乗客は衝撃に気付かなかったが、船首にいた人々は、氷の塊が甲板に落ちてきたため、氷山に衝突したことがわかった。

下のボイラー室と郵便室では、船首に最も近い5つの区画に水が入り込み、乗務員たちが不安に駆られていた。タイタニックの運命は明らかだった。水を遮断するはずの隔壁は、船の底からEデッキの高さまでしか届いていなかった。通常の状態であれば十分な高さのはずだが、船首が沈み、船が傾き始めれば、水面は隔壁の上辺を超えてしまって、何の役にも立たなくなる。

 前方の5区画に入った水の重みで船が前へ傾き、6番目の区画に水が流入する。それがさらに船を沈ませ、次の7番目の区画にも水が入ってしまう。こうして次々に後方の区画に水が入り込み、タイタニックはあと2時間しかもたないだろうと、乗務員たちは予測した。

船からの脱出

 スミス船長は、無線で助けを呼び、遭難信号のロケットを打ち上げ、乗客を救命ボートに乗せるよう命じた。

 ところが、ここで重大な問題が持ち上がった。英国商務省による時代遅れの規定では、1万トンを超える船には最低16艘の救命ボートと、その他の折り畳み式ボートや浮き具を備えておくことが義務付けられていた。この規定が作られた1896年にはそれで十分だったかもしれないが、4万6000トンを超えるタイタニックのような巨大船には全く足りない。しかも、最新の船は頑丈に作られているため沈むことはないと考えられていたため、救命ボートの数はそれほど重要視されていなかった。

 タイタニック号には、救命ボート16艘のほか、脇がキャンバス地の折り畳み式ボートが4艘しか備えられていなかった。これでは、乗客・乗員の半分しか収容できない。多くの人間は、船に残されなければならなかった。

 乗務員たちはボートの定員数を把握していたものの、2つの理由からボートを満員にすることなく海へ降ろしていた。まず、二等航海士のチャールズ・ライトラーは、定員の70人まで乗せたら降下装置が持ちこたえられないのではないかと乗務員たちが不安視していたと、後に証言している。また、船が完全に沈没するまでに全てのボートを降ろすことができないかもしれないという焦りもあった。実際、最後の2艘は間に合わず、1艘は完全に着水する前に落下し、もう1艘は波にあおられて転覆してしまった。

 結局、ボートは400席以上が空席のままタイタニックを離れた。ボートに乗った男性の数は比較的少なかった。スミス船長はメガホンを手にして、「女性と子どもを先に!」と命令を飛ばした。これを聞いて、船の左舷ではライトラーが女性と子どもだけをボートに乗せ、一人だけ航海の経験がある男性を乗せた。一方、右舷ではマードックが異なった解釈をして、その場にいた女性と子どもを全員乗せた後、まだ空いている席を男性で埋めた。

最期の瞬間

 その間も、船には水が容赦なく入り込んでいた。そして氷山に衝突してからおよそ2時間40分後、船尾が水面から高々と持ち上がり、船首は海底へと落ちて行った。船に残った人々が最期の瞬間まで傾いた船尾の甲板をよじ登り、やがて海へ消えていくのを、救命ボートに乗っていた人々は恐怖に包まれながらただ見ているしかなかった。

 1912年4月15日午前2時20分、タイタニック号は極寒の海に沈んだ。海へ投げ出された人々にとって、救命胴衣は何の役にも立たなかった。大金持ちから労働者階級まで、1500人以上が溺死したり、低体温症で死亡した。

 救命ボートに乗った人々のもとには、間もなく救助が到着した。タイタニック号は沈没する前に、近くにいたカルパチア号と連絡を取ることができたのだ。この船は午前4時頃に到着し、約705人の生存者を救出した。

次回は“タイタニック沈没は天文現象のせい? / タイタニック号の故郷ベルファスト”に続く

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= 【動画】タイタニック号はこうして沈んだ(解説は英語です) =

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=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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