ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年05月17日<ⰧⰊⰧ
☆★ 保守分裂から日和見を決め込んでいた参議院議員58名が緑風会を結成、自分たちを良識の代表と自惚れ始める(1947年)。☆★ 兄貴のアーン♥♥小説の映画化で、石原裕次郎が脇役ながら銀幕デビューを飾る(1956年=映画『太陽の季節』が封切り)。☆★ 睡眠薬サリドマイドがようやく出荷停止(1962年)。しかし前年の11月に奇形児を出産する恐れがあると指摘されていたが、製造元はダンマリを決め込んで今まで売っていた。&so、世界保健機構が、世界同性愛開放宣言を発表(1990年)。
本日記載附録(ブログ)
「絶対に沈まない」といわれていた豪華客船タイタニックが沈没した
---そのタイタニックに1人の日本人が乗っていた。細野正文さんである---
【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)
◇◆ 戦後まで引き継がれた汚名 2/2 ◆◇
――結局、正文さんの汚名がそそがれるのは、戦後、それも90年代になってからですが、発端は何ですか。
叔父の細野日出男(元中央大学教授、故人)が、1942年に祖父の遺品を整理していて手記を見つけたんです。タイタニックが沈んだ4月14日の夜から、救助されてニューヨークに送り届けられる18日までのことが、タイタニックの船室にあった便箋に書き綴られていました。
その内容を読むと、祖父は決して卑劣な行動はとっていない。婦女子優先を守って、船と一緒に沈む覚悟でいたんです。
しかし、救命ボートに空きがあるというのを聞いて、ボートに向かって飛び降りた。警備の船員が持つ拳銃に打たれてもやむを得ないという決死の判断でした。
叔父は、手記でそのことを知って、汚名返上のためにさまざまな取り組みをしたようです。しかし、なかなか汚名をそそぐことができなかったらしい。戦時中のことでしたから。
それは戦後も続きますが、祖父を中傷していたのは、ある特定のジャーナリストだったようです。僕の両親も、とてもいやな思いをしていて、叔父はその人の書いたものに対して反論していたそうです。1950年代ごろのことです。
――それが大きく転換するのは、タイタニックが沈んで80年以上経ってからですね。
ええ、実はそのきっかけをつくったのがジェームズ・キャメロン監督の映画『タイタニック』(1997年)だったんです。
――レオナルド・ディカプリオ主演で、アカデミー作品賞をとったあの映画ですか。
そう。映画公開に合わせた話題づくりでもあったらしいんですが、タイタニック財団(RMSタイタニック社)が調査に来たんです。それまで外に出したことのない祖父の手記を貸したのですが、その調査によって、それまでわかっていなかったことが、いろいろと明るみに出ました。
――どんな事実が判明したのでしょう。
次回は“第3回 引き揚げ遺品で汚名返上”に続く・・・・・
…… 参考資料: タイタニック(客船) =5/11= ……
船体の損傷と浸水
受けた衝撃は船橋(ブリッジ)では小さく、回避できたかあるいは被害が少ないと思われた。船と氷山との接触は10秒間ほどで、船体の破孔は数インチ、総面積も1平方メートル程度であったことが海底探査によって判明している。
しかし、右舷船首のおよそ90メートルにわたって断続的に生じた損傷が船首の5区画にもたらした浸水は防水隔壁の上限を超えており、隔壁を乗り越えた海水が次々と防水区画から溢れたことで船首から船尾へと浸水が拡大していった。また、損傷は第六区画内にある第五缶室にも達していたが、被害は右舷船首側石炭庫への浸水のみであり、一時はポンプによる排水も成功したかに見えた。しかし、1時10分頃に突如第五区画側から水が流れ込んできたため放棄された。これは事故前に発生していた船内火災の影響とも、水密隔壁に比べて強度が劣る石炭庫壁の損壊によって庫内の水が流入してきたものとも言われている[8]。かつてはボイラーに冷水が触れて水蒸気爆発が起き、船体側面にできた破孔から大量に浸水したとする説が有力だったが、船体調査の結果ではボイラー付近にそのような破孔は確認されなかった。
2005年の海底探査で剥離した船底が発見されたことで、衝突の際にタイタニックは水面下に広がる氷山の突起に乗り上げるかたちで船底にも損傷を受け、沈没時に船体が折れる原因になったとするロジャー・ロムの説も生まれている。
スミス船長は海水の排水を試みようとしたが、ごくわずかな時間稼ぎに留まった。日付が変わった4月15日0時15分、マルコーニ社規定の遭難信号『CQD』を発信し、周辺の船舶に救助を求めた。しかし、現場からわずか10 - 17海里(約18 - 30キロ)ほどの距離に碇泊していた「カリフォルニアン」は、たった1人の通信士が就寝中で無線を受信できなかった。事故後の査問委員会にて同船船長のロード船長は、もし事故を知っていたら、最大船速13.5ノットにて2時間程度でたどり着けただろうと述べるとともに、同日0時頃に発光弾を放つ船が4マイル先を通過しているのを船長並びに複数の船員が目撃したが、発光信号を送っても無視されたと述べている。
カナディアン・パシフィックの「マウント・テンプル」も遭難信号を受けて救助に向かったが、タイタニックから20キロ未満の距離の海域に到着したあとに、船長のヘンリー・ムーアが氷山を恐れるあまり消灯して停船し、雲隠れしてしまった(査問委員会に提出された航海日誌では48海里(約88キロ)と記録されている)。乗客の何名かは、タイタニックの船体が折れる音を聞いたと証言している。
ほかにも、「バーマ」(距離70海里(130キロ))、「フランクフルト」(距離153海里(283キロ))、「バージニア」(距離170海里(315キロ))、「バルチック」(距離243海里(450キロ))、姉妹船「オリンピック」(距離500海里(約930キロ))など様々な船が遭難信号を傍受しているが、いずれもタイタニックから遠く離れた場所を航行しており、すぐには救助に向かえない状況であった。
結局、58海里(約107キロ)離れた地点にいた客船「カルパチア」が応答し、ボイラー破損のリスクを負いながら高速(通常14ノットのところを17ノット)で救助に向かったが、船足の鈍いカルパチアが現場に到着したのは沈没から2時間40分後の午前4時であった。
遭難信号については1906年11月3日にベルリンで調印された国際無線電信条約附属業務規則の第16条で遭難信号『SOS』が定められ、1908年7月1日より発効していたが、事故直後はマルコーニ国際海洋通信会社規定の遭難信号『CQD』を使っており、途中から国際条約による遭難信号『SOS』を併用している。
/・・・・・・明日に続く
○○-----○○-----○○-----○○-----○○
= Titanic - My Heart Will Go On (Music Video) ; https://youtu.be/3gK_2XdjOdY =
・・・・・・・・・・☆・・・・・・・・・・・
=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
前節へ移行 : https://blog.goo.ne.jp/bothukemon/e/79f4a6d2c5e1b703ace223e1f0c8b1a5
後節へ移行 : http://blog.goo.ne.jp/タイタニック06/xxx
----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------
【喜色一笑;歴史自講】 :https://hourou8855desu.seesaa.net/
【浪漫孤鴻;時事自講】 :http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/
【壺公夢想;如水総覧】 :https://thubokou.wordpress.com/
================================================
・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
================================================