ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年05月12日<ⰧⰊⰧ
☆★ 年増の人妻と駆け落ちした兄貴に代わり今の女王様の親父がイギリス国王になる(1937年=ジョージ6世の戴冠式が行なわれる)。☆★ 世田谷区民が米よこせと赤旗を振りながら、畏れ多くも有史始まって以来最初に宮城に押しかける(1946年)。☆★ 四川大地震で中国の人口が0.007%減少する(2008年)。
本日記載附録(ブログ)
「絶対に沈まない」といわれていた豪華客船タイタニックが沈没した
---そのタイタニックに1人の日本人が乗っていた。細野正文さんである---
【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)
◇◆ 唯一の日本人にして生き残りだった祖父 ◆◇
――祖父、細野正文(まさぶみ)さんがタイタニックの事故から生還されたというのを、最初に知ったのはいつですか。
小学校3年のころだったかな。両親から聞かされました。
タイタニックの映画『SOSタイタニック/忘れえぬ夜』(1958年)を見に連れていかれたんですよ。英国映画のシネマスコープで、まだモノクロでした。ケネス・モアが主演だったのを覚えています。
その帰りに、ボソボソッと父親が。あまり多くは語らなかったのですが「タイタニックにおじいさんが乗っていた」と教えられました。
――驚かれたでしょう。
映画を見たあとですからね。「えっ!」と思いましたよ。歴史的な大事件ですからね。
祖父は、九死に一生を得て生還しながら、その後は長く誹謗中傷にさらされました。両親はそういう話はしませんでしたが、何か口ごもりながら話していたのを覚えています。
両親も、祖父から直接にはタイタニックの話をほとんど聞いていなかったようです。祖父は寡黙な人だったとも聞いています。
――正文さんへの中傷とは、生還後に「他人を押しのけてまで生きて帰った卑怯者」という世論が巻き起こったことですね。そのことについて伺う前に、正文さんはヨーロッパで何をされていたのですか。
祖父は、鉄道院の第1回留学生としてロシアのサンクトペテルブルクに赴いていました。2年ほどロシアにいて帰国するとき、知人のいるイギリスに寄り、そこからタイタニック号に乗ってニューヨーク経由で帰国することにしたようです。
日本人の乗船客は祖父1人でした。
――正文さんが卑怯者呼ばわりされたことを、詳しく知ったのはいつごろですか。
高校生のころでしょうか。週刊誌の記事などから知りました。でも、遠い過去のできごとですからね。
実感がわかないんですよ。祖父は1939年に68歳で亡くなっています。僕が生まれる前ですから、直接会ってはいないし、顔も写真でしか知りません。
祖父が乗っていたと知ってから、タイタニックの事故のことは、ずっと胸のどこかに引っかかってはいました。しかし、どこかロマンチックな話としてとらえていました。
――ロマンチックな話ですか?
僕の両親は洋画好きで、よく映画館に連れていってくれました。家にはSP盤レコードがあって、ハリウッド映画やドイツ映画の主題歌でした。
母親が好きだった映画に『歴史は夜作られる』(1937年)という作品があるのですが、これもタイタニックの事故をモチーフにしたものです。良い映画で、見た記憶がありますけども。
最初に、映画を見てからタイタニックと祖父のことを知りましたからね。映画のなかにはラブロマンスも織り込まれているし。
あの事故が事実で、歴史的なできごとだというのは理解していたのですが、何といいますか、タイタニックのことも、祖父のことも、ずっと映画や物語世界の話のような感覚でとらえているところがありました。
――しかし、実際は、あの事故から生還した正文さんはその後、大変な目に遭います。そのお話を次に聞きましょう。
・・・・・・明日“第2回 戦後まで引き継がれた汚名”に続く・・・
…… 参考資料: タイタニック(客船) =3/11= ……
世界最大の客船
当初両姉妹船の総トン数は同じになるはずであったが、一等客室の数が増えたために最終的にタイタニックはオリンピック(4万5,324総トン)よりも1,004総トン増え、4万6,328総トンになった。
不沈船
タイタニックには当時としては高度な安全対策が施されていた。船底は二重になっており、船体も喫水線(水面)上までの高さがある防水隔壁で16の区画に区分され、そのうちの2区画(船首部では4区画)に浸水しても沈没しない構造になっていた。隔壁は、Gデッキより上の壁は手動であったが、下層デッキのものは船橋 (ブリッジ)からの遠隔操作で即時閉鎖できた。各区画にも手動スイッチが設置され、15センチ以上の浸水で自動閉鎖される機能も備わっていた。そのため「不沈船」として喧伝され、21世紀の技術水準から見ても本船はきわめて安全な船であると言われている。
=沈没事故=
航行
1912年4月10日に、タイタニックはエドワード・ジョン・スミス船長の指揮のもと、イギリス・サウサンプトン港の専用埠頭「オーシャンドック」からニューヨーク行きの処女航海に出発した。乗客乗員は合わせて2,200人以上で、一等特別室の航海費用は6日間で4,350ドルだったと伝えられている。
サウサンプトン港の出航後、タイタニックのスクリューから発生した水流に近くを航行していた客船ニューヨークが引き寄せられたが、衝突は間一髪で回避され、予定通りフランスのシェルブールとアイルランドのクイーンズタウン(現・コーヴ) に寄港し、アメリカのニューヨークに向かった。
サウサンプトン港出航の直前に人事異動があり、ブレア二等航海士が双眼鏡を二等航海士キャビンにしまったことを(降格されたあとに二等航海士になる)ライトラー一等航海士に申し送りせずに下船したため、双眼鏡が所在不明になり、海上の監視を肉眼で行うことになっていた。
4月14日は午前中から当該海域を航行していた船舶間で、流氷群についての情報が無線通知されていた。その日、タイタニックも6通の無線通信を受信していたが、この季節の北大西洋の航海においてはよくある現象だと見過ごされてしまい、クルー間の情報共有も徹底されなかった。さらに混信が発生し、衝突の40分前に近隣を航行するリーランド社の貨物船「カリフォルニアン(英語版)」から受けた警告も雑音とみなされてしまった。タイタニックの通信士たちは、前日の無線機故障のために山積していた旅客電報の発信業務に忙殺されていた。スミス船長は氷山の危険性を認識しており、航路を通常より少なくとも18キロ南寄りに変更していた。
4月14日23時40分、タイタニックが北大西洋のニューファンドランド沖にさしかかったとき、見張りが450メートル前方に高さ20メートル弱の氷山を肉眼で捕捉した。この海域は暖流と寒流がぶつかる境界面に位置するため、国際的にも海霧が発生しやすい海域として知られており、当直見張員だったフレデリック・フリートの証言によれば、そのときも海面には靄が漂っていた。また、双眼鏡なしでは月のない星月夜の静まり返った海の氷山の縁に立つ白波を見分けることも容易でなく、発見したときにはすでに手遅れだった。ただし、双眼鏡は遠くにある物を大きく見る道具であって暗いところを明るく見る道具ではないため、あったとしても闇夜では役に立たなかったとする見解もある。氷山は全体の10パーセント程度しか水上に姿を現さないため、水面下で衝突する危険性がある。 /・・・・・・明日に続く
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= タイタニック号 実際の写真 Real Titanic photos ; https://youtu.be/gnKmXtHD0eA =
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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