ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年05月10日<ⰧⰊⰧ
☆★ 五月病の流行が始りだす220年前、ルイ16世がフランス王に即位(1774年)。マリー・アントワネットとの結婚4年目であった。が、子作りの方法を知らなかった国王・王妃は祝賀に表敬した義兄・ヨーゼフ2世より子作りの仕儀を授けられたという。☆★ ドイツ各地でナチスの気に入らない国民にふさわしくない本を薪代わりにしたキャンプファイヤーが開催される (1933年=焚書が公開=) 。 ☆★ 平沢貞通が、刑の確定32年と2日で幽体離脱して刑務所を出る1987年) 。
本日記載附録(ブログ)タイタニック号はなぜ沈没したのか? 重ねたミス、1500人犠牲に
---見過ごされた警告、救命ボートの不足、いくつものミスが重なって沈没は起きた---【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)
◇◆ タイタニック号はなぜ沈没したのか? 2/2 ◆◇
船からの脱出
スミス船長は、無線で助けを呼び、遭難信号のロケットを打ち上げ、乗客を救命ボートに乗せるよう命じた。
ところが、ここで重大な問題が持ち上がった。英国商務省による時代遅れの規定では、1万トンを超える船には最低16艘の救命ボートと、その他の折り畳み式ボートや浮き具を備えておくことが義務付けられていた。この規定が作られた1896年にはそれで十分だったかもしれないが、4万6000トンを超えるタイタニックのような巨大船には全く足りない。しかも、最新の船は頑丈に作られているため沈むことはないと考えられていたため、救命ボートの数はそれほど重要視されていなかった。
タイタニック号には、救命ボート16艘のほか、脇がキャンバス地の折り畳み式ボートが4艘しか備えられていなかった。これでは、乗客・乗員の半分しか収容できない。多くの人間は、船に残されなければならなかった。
乗務員たちはボートの定員数を把握していたものの、2つの理由からボートを満員にすることなく海へ降ろしていた。まず、二等航海士のチャールズ・ライトラーは、定員の70人まで乗せたら降下装置が持ちこたえられないのではないかと乗務員たちが不安視していたと、後に証言している。また、船が完全に沈没するまでに全てのボートを降ろすことができないかもしれないという焦りもあった。実際、最後の2艘は間に合わず、1艘は完全に着水する前に落下し、もう1艘は波にあおられて転覆してしまった。
結局、ボートは400席以上が空席のままタイタニックを離れた。ボートに乗った男性の数は比較的少なかった。スミス船長はメガホンを手にして、「女性と子どもを先に!」と命令を飛ばした。これを聞いて、船の左舷ではライトラーが女性と子どもだけをボートに乗せ、一人だけ航海の経験がある男性を乗せた。一方、右舷ではマードックが異なった解釈をして、その場にいた女性と子どもを全員乗せた後、まだ空いている席を男性で埋めた。
最期の瞬間
その間も、船には水が容赦なく入り込んでいた。そして氷山に衝突してからおよそ2時間40分後、船尾が水面から高々と持ち上がり、船首は海底へと落ちて行った。船に残った人々が最期の瞬間まで傾いた船尾の甲板をよじ登り、やがて海へ消えていくのを、救命ボートに乗っていた人々は恐怖に包まれながらただ見ているしかなかった。
1912年4月15日午前2時20分、タイタニック号は極寒の海に沈んだ。海へ投げ出された人々にとって、救命胴衣は何の役にも立たなかった。大金持ちから労働者階級まで、1500人以上が溺死したり、低体温症で死亡した。
救命ボートに乗った人々のもとには、間もなく救助が到着した。タイタニック号は沈没する前に、近くにいたカルパチア号と連絡を取ることができたのだ。この船は午前4時頃に到着し、約705人の生存者を救出した。
次回は“タイタニックに1人の日本人が乗っていた”に続く
…… 参考資料: タイタニック(客船) =2/11= ……
オリンピッククラス
タイタニックには姉妹船の「オリンピック」と「ブリタニック」が存在した。3隻体制は、当時ドル箱航路であった北大西洋航海において、他社との競争に打ち勝つためには実に合理的なものであった。タイタニックは1番船オリンピックの造船とほぼ時期を同じくして起工された。
ブリタニックはタイタニック沈没の影響による設計の見直しを迫られ、大幅に遅れて起工されたが、第一次世界大戦勃発によって病院船として徴用され、商船としては一度も使われないまま触雷により沈没した。オリンピックは輸送船として徴用されたが、戦火をくぐり抜けたのち客船として復帰し、1935年に引退するまで使用された。
タイタニックとオリンピックはほぼ同時期に竣工されたこともあり、外観や内装、サービス面においても瓜二つであった。1997年の映画『タイタニック』では、タイタニックのみが巨大な船であるかのように演出されていたが、当時はオリンピックが筆頭格であり、タイタニックの紹介記事にもしばしばオリンピックの写真が使われるなど、事実上オリンピックの陰に隠れた存在であった。その知名度が上がるのは皮肉にも沈没事故のあとであった。
オリンピックとの相違点
先立って運航されていた1番船オリンピックの改善点の指摘を受けてタイタニックの設計は多少変更され、外観もオリンピックと異同がみられる。特に目立つ部分はAデッキで、一等船客専用プロムナードデッキ(遊歩道)が、オリンピックでは全体が海に面したベランダ状の吹きさらしとなっていたが、タイタニックでは中央部分から船首側の前半部分にガラス窓を取りつけてサンルーム状の半室内とされた。これは北大西洋の強風や波しぶきから乗客を守るためであり、タイタニックはオリンピックよりもすっきりとした外観が、2隻を区別するうえでの重要な要素となった。
ほかにも、オリンピックにはAデッキ同様Bデッキにも海に面して全体にわたってプロムナードデッキが設けられていたが、タイタニックでは後部一部分を除き廃され、代わりに前部から中部にかけて一等客室が増設された(オリンピックのBデッキの一等客室はすべてプロムナードデッキの内側にあり、直接海を展望できなかった)。
そのうえ、プライベートプロムナードデッキのついた特等室(スイートルーム、1997年の映画『タイタニック』ではヒロインの婚約者の部屋)が2部屋設けられた。また、後部の一等船客専用の絢爛豪華なレストラン「アラカルト」も規模が拡張され、パリのカフェをイメージした華やかな「カフェ・パリジャン」が新設された。ただその反面、オリンピックはBデッキプロムナードデッキの後部3分の1程度が二等専用として確保されていたが、タイタニックは先述したとおり一等専用レストランの拡張及びカフェの新設によりその規模が大きく縮小された。 /・・・・・・明日に続く
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【動画】タイタニック号はこうして沈んだ ; https://youtu.be/FSGeskFzE0s
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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